透析医療の発展
課題克服の小さな積み重ねが、透析医療を大きく発展させた
先生は透析医療に40年近く携わり、治療の変遷とともに歩んでこられました。透析治療との最初の出会いと、その後の関わりはどのようなものでしたか。
水口 もともと私は大学で、白血病や神経疾患などの、当時は難病といわれた疾患を研究していました。それが1978年に、研修先の病院で血液透析に触れる機会を得ました。末期腎不全患者さんの浮腫や食欲不振、心不全といった症状が、透析でみるみる改善するのを目の当たりにし、これはやりがいのある治療だと感じたのがきっかけです。
難病の治療に取り組む中で、症状が劇的に改善する様を目にした時の感動はさぞ大きかったでしょうね。
水口ただ、実際に透析治療に関わってみると、たくさんの課題が見えてきました。当時はまだ透析機器の品質が低かったので、患者さんは不均衡症候群などの透析困難症を患いながら、常に死と向き合いながら透析をしていたのです。そのため、患者さんの実に6割が腎移植を希望するという状況でした。
治療が相当辛かったということですね。
水口そこで、「腎不全患者さんと長く関わるのであれば、移植医療にも対応できなければ」と思い立ち、1982〜85年に東京女子医科大学の太田和夫先生に師事し、腎移植を学びました。そこで出会ったのが、高橋公太先生(のちの日本臨床腎移植学会 理事長)、寺岡慧先生(のちの日本移植学会 理事長)、田邊一成先生(現在の東京女子医科大学泌尿器科 主任教授)、新田孝作先生(現在の日本透析医学会 理事長)です。4年間の出会いと経験は、その後の腎不全医療との関わりの中で、大きな力、後ろ盾となりました。
挙げていただいた先生方は、まさに今の腎代替療法のキーパーソンです。
水口その後、1985年に再び透析医療の世界に戻りましたが、1980年代になると、透析患者さんもある程度は長生きできるようになっていました。
しかし今度は、透析歴10年を過ぎた頃に発症する、骨関節症や手根管症候群などの透析アミロイドーシスが問題となったのです。
それに対し、1985年に主要構成物質(β2ミクログロブミン)が解明され、透析治療の標的はβ2ミクログロブミンの除去に向けられました。1986年には透析アミロイドーシスの克服を目標に掲げた「第1回 ハイパフォーマンスメンブレン研究会」が開催され、私も参加させていただきました。
「ハイパフォーマンスメンブレン研究会」は、透析技術の進化の牽引役となった組織ですね。
水口ただ、当時はまだ、尿毒素の除去は主として「拡散」にたよっていました。それが次第に、老廃物の除去は「拡散」だけでは不完全、との認識が高まり、1995年、「濾過」を主体とした透析治療の発展を目指す「日本HDF研究会」が設立されました。
それと時期を同じくして、腹膜透析の普及を目指す「日本腹膜透析研究会(のちの日本腹膜透析医学会)」も設立されました。
さらに翌年(1996年)には、バスキュラーアクセスの重要性に視点を置いた「アクセス研究会」が設立され、透析医療を論ずる場が一通り揃ったのです。
患者さんが長生きできるようになり、そこからさらに様々な透析の課題が見え、それを一つずつ解決するために医師を主体とした研究組織が作られ、進歩を遂げてきたということですね。